わたしについて

「女子力」について

 

女子力、正直なところこの言葉が嫌いである。自分の備えていない物だからとは思いたくない。が。

全て 媚び としてとれるからである。

 

柔らかい色の服を着る サラダを取り分ける オーバーに笑う 自分磨きを頑張る 艶のあるグロスを重ねる

 

「女子力」とは、そういった媚びのスキルを高めることで、周りの人間に愛想や好意を与えつつ、いつでも誰からでも回収できるようにしておき、必要なものは奪う。不必要なものは捨てる。その計算高さのことであろう。

しかし、サラダを取り分けられ、素敵な女性だな と感じる異性は、素敵なわけがないだろう。

ボディタッチで落ちるような男性はボディタッチで落ちるアホでしかないように、見た目をどうにかすれば、気が変わるような男性は、それ程度である。陳腐だ。

 

皆、何者になろうとしているのだろうか。不思議。しょうもない。

 

サラダは取り分けない。アイロンをかけ忘れたシャツも平気で着る。ネイルは自分好みのド派手な色を。

無理に笑わない。笑いたい時は豪快に笑う。泣きたければ泣く。スマホの画面もバキバキでいい。愛着のある汚れたスニーカーは味がでて最高。野蛮でいい。生きてればよし。ありのままを愛おしいと思ってくれる人に出会いたい。

 

そんなこといつも考えるが、気になる異性を前にすると乙女は豹変するものです。

着飾らない方が魅力が伝わる。なのに必死に取り繕って、着飾る。女子ってホントに掴めない。女の子ってホントに楽しい。

 

 

 

 

 

 

花火あるいは恋人の定義

 

花火が好きというより、花火を見に行こう と約束をするあの瞬間のほうが好きだ。

花火を見終わって人々は、夏の葬列のように知らない道を引きずり歩く。

爆音で咲く花火のあとで、より身体はカラである。冷たい下駄の音だけが鳴り響く。

 

フィルムカメラもそうだ。

現像された写真を手に入れるより、どんなふうに写っているのか と想像し胸が高揚するシャッターを押す感覚が好きだ。

写真の出来がすぐにわからない、期待を馳せることこそ、醍醐味と言える。

そして、新書より、数百円の古本のほうが魅力を感じる。勿論、愛読している方の作品は必ず新書店で買うが。

古本というより古本屋が好きなのだろう。古本屋の魅力は本が呆然と並べられた本屋と異なり「偶然の出会い」が多くある。そして、すでに絶版になってしまった、もう手に入らない作品とも触れ合える。

その世界に出回っていない本を一緒に読み合い、内容について語り合いたい。

 

恋人の定義は様々である。私の場合、自分のお気に入りの本を共有したくなる人。

つまりは、読んだ本について深く語り合えること。語り合いの時間をできるだけ長く。

長く、長く時間を共にしたい人だ。つまりは、直接会って話がしたい人でありデートしたい人。

本の物語の人物のようには愛し合えない私たちを、私はとても愛している。

 

 

 

 

 

大停電になった世界をたまに想像する。

テレビもない。スマホの充電もない。灯りもない。真夜中に食べたいアイスもない。

きっと、夜散歩に出かける人は多くなる。ろうそくや甘いものはよく売れる。会いたい人には会えない。

 

星は零れ落ちそうなほど輝き、新しい星座を作る者が現れる。まったく売れない詩集は、昼間少しだけ手に取る人が増えるだろう。

 

誰もがすぐに終わると思っていた大停電は、何年も続いたとする。きっとほとんどの人が、伝えたいことを伝えたい人に、伝えられないまま死ぬ。でもそれは、停電のない今でも、あまり変わらないことだ。

百年後、さようならという言葉はなくなっているのかもしれない。

幸福で孤独な別れが、まったく別の言葉で表現されるのだろう。

 

そんな想像から目覚めた私は、いつもより大胆になれる。欲望が溢れる。なんの理由もなくいつもと真逆も電車に飛び乗り、目的もなく突き進む、会いたい人に会いたいという。

いつだって素直になればいい。なれる。

 

 

 

 

 

 

将来の夢、幼稚な時は夢など指の足りない程あった。大人なんてキラキラしていて明るい。自分がどんな大物になるのか と思いを膨らませていたのは私だけでしょうか。

 

いつからか、夢を語るのが怖くなったのは。あの頃より大人に近づいているはずなのに、未来は驚くほど見えない。

 

 

 

そんな不安で溺れそうな真夜中に唯一望むこと。将来をあきらめたときとか、大事なものを失くしたときに、静かに話せる人が、一人いたらいいなといつも思う。肯定でも否定でもない。ぶっ壊れるまで話すだけ。聴くだけ。そんな夜はいつ、あと何度訪れるのか。その夜の為に生きているような気がする。

 

 

 

 

言葉を紡ぐように話す人に魅かれる。何かとてもアツく、繊細で優しい包みこまれた気持ちにさせる。

自分の持つ容姿や、声、音、光、香り、素材、でオリジナルな空間を産みだす人に憧れる。

それもまた、柔らかく、ローテンポで都会的な。自分の世界を守り、周囲を巻き込みながら進む。私もそんな人物になりたい と強く願う。

魅かれる、憧れることばかりだなと思う。それが未来とどう関わるのか、わからないから面白いのだろう。

そうしてひとりで幸福に絶望している。そんな人だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の脳内作家ごっこ

お元気ですか。

現代は、冷淡で淡々としている、と口にする人がいる。寂しい時代である。

 

 

目に見えない物を恐れ、一人でいるのが正義。

街に繰り出し、世界を回すのもそれはまた正義と言える。

 

しかし私たちはどちらにも振り切れない

そんな曖昧な日々。曖昧な感情だけが付き纏う。

いつからか、楽しかったことを人に伝えられないようになったのは

 

こんなどうしようもない話で夜が明けるまで笑い合いたい人がいる

直接会って話したい人がいる。このことに気づいただけでいい、それだけであたたかい。

 

 

 

 

「もっとたくさんの美しいものを観てみたい」

 

 

雪を踏むときの感覚、ベーコンと目玉焼きを焼く音で起きる朝、つまらない講義を横流ししながら明日のコーディネートを考える時間、雨が降る前の特徴的なあの匂い、あるいは地下鉄ですれ違った髪の綺麗な女性の香水のようなもの

 

いろんな人の声を聴いてみると、その人の孤独がわかっちゃう気がする。なんていうのはさておき自分の孤独と向き合うことが人生における趣味のようなものだという気がする。

 

 

音楽っていいな。という言葉の裏側に隠されたそれぞれの意味が知りたい。

 

音楽は、気分、理想、夢、熱、どちらかというと暖色であり、煌びやかである。タイタニックの碧洋のハートにとても近い

 

 

私は、歌詞に共感した音楽を永遠とリピート、聴き潰すタイプである。だからか、懐かしいメロディーを聴くだけでその時のことを思い出す。良くも悪くも。

 

 

好きって美しいものを一人で見たとき、あの人にも見せたかったな。と思えることだと思います。もしくは、おいしいものを食べたとき、思わず一緒に食べようとメッセージを送ること。送れなくても送れなかったことは、ずっと覚えていること。

 

だから、もし好きな人がいたなら、好きだ。と伝えるよりも、言葉にならぬ感情、言葉にならぬ瞬間、現場に遭遇することのほうが大事だ と信じている。かみしめるべきだ。

夜はそう長くない。嘘。夜は永い。が、やさしくない。

わたしたちには余裕がない。願わくば、良い夜を。ささやかな愛を。

 

 

よく食べ、よく眠る。ちょっぴりいい服を躊躇なく買う。誰かの役に立つ。一日一回は平気で噓をつく。車の中は、ほぼカラオケ。電車の中は、人間観察。暇があればネトフリ、あるいは本を開く。乗りたい電車の二時間前に家を出て、散歩しながら季節に溺れる。繊細に幸せを味わう。

 

自分の中にしかない、小さな幸せ。幸せのサイズを決めたのは誰だろう

サイズなんて関係ない、ましてや、幸せの有無など、考える必要がない。自分が不幸せだと思っている人がいるのなら、砂糖水を一口飲むといい。甘い。味覚があるだけで幸せだ。その勢いで、関わりの少ない顔見知り程度の他人に甘えるといい。会う約束をすればいい、人との関わりで生活は一変する。甘党でよかった。我々人間は、単純すぎる。

 

 

 

良いと思ったら素直に伝える。嫉妬も伝える。かわいく伝える。かわいく。

毎日をかしこまるより、愛嬌のあるほうが楽であるから

 

 

 

私は、お花が好きだ。慈しい。

花束をもった人を街中で見かけると幸せをおすそ分けしてもらった気持ちになる。花束は貰ったものなのか、もしくは特別な人に贈るものなのか。そんなことを思うだけで心和む。

 

お花にはそんな力、愛があると思いませんか。

 

 

 

 

花束もいいが、人の手が加えられていない道の端に咲いているものや、地面に散った花を見るたび

「空を見上げる気力や体力のない人たちにも季節の移ろいを教えてくれるからこそ花は美しい」という言葉を思い出す。

 

 

お花について、もう一つ

「別れる男に花の名前を一つ教えてやりなさい。」                川端康成の言葉だ。

この言葉は、「花は毎年必ず咲きます。」と続く。花に纏わるテキストの中で一番刺さる。

悪でも善でもなく、媚びているようで、媚びていない。復習の香りすら漂うこの言葉に何度魅了されただろう。

花は毎年咲くが、命は短い。儚い。淡い。

我々が飽きる前に姿を消す。物足りない我々は、その花が咲く季節を待ち侘びる。

隣の花は赤い。人間はないものねだりだ。花は実に賢い。

 

 

 

 

 

「追い詰められたらニャーン、とでも言っておきなさい。」私の愛する作家のワンフレーズ

 

大人になってまで反省しなくていい、日々を退屈しなくていい、夢見て適度に働き頂いた報酬を、自分もしくは愛おしい人にために使えばいい。この生活にケチをつけてくる他人に構うのは、馬鹿馬鹿しいので、ニャーン、と言えばよいのでしょうか。

 

反省の役目は子供に任せておこう ニャーン。

 

 

 

 

こんなどうでもよいことを考えている間にも、誰かにとっては生涯忘れられない一瞬かもしれない。

 

 

以前、真夜中に 私にあって話がしたい、と原付バイクで雨の中、会いに来た友人がいた。

彼女は恋人との関わりに悩む

どこから浮気といい、どこからはそうでないというのか。

そんなことは今まで考えたこともなかったが、私に感情を伝えようと言葉を模索している自販機の光に照らされた彼女の横顔は美しかった。ただそれだけ。

彼女の悩みは、海よりも深く、星よりもきれいで、

行き場のない 

果てしないものであることは分かった。恋する乙女は無条件にかわいく無敵なことも分かった。

 

 

そんなことより私の脳は、イロコイが少ないわたしのもとへ何故突然駆け付けたのか で溢れる。

彼女の悩みを聞き寄り添うよりも、彼女が私に会いたくて駆け付けてくれた事実、が

あたたかい、あんな夜があと何度、訪れるのだろう。

どうしようもない悩みを語り合う夜。愛愛しい。

そして数年経てば、大人になんかなりたくない と言い出し、また似たような時間を過ごすのだろう。そんなどうしようもない、どうしようもできない我々の叫びは、永遠です。

 

そもそもご機嫌に生きる。それ以外、私たちに与えられた義務などないのだ。

 

 

 

私は、春が好きだ。なんとなく、ラフに過ごせる。

「出会いと別れの季節」といえば、それはそうでしょう。勿論、人間関係は難しい。面倒くさい。

その心を癒すように春を彩る桜。

桜の魅力を引き立たせるように、わたしたちを包み込むように吹く生温い風。

暑さに慣れていない身体を刺激するように、照りつける太陽。

春の別れで心がカラになったら、春にしかない柔らかい空気に浸ればいい。

いつもの散歩道に飽きたのなら、新しい道を探せばいい。ついでに新しいプレイリストもつくろう。

他人のSNSに映る夜桜を眺める暇があるのなら、桜が咲いている近所の小さな公園に行き、桜の下でお気に入りの小説を読み返す。

 

そんな日々を過ごせば、春を楽しめ、新しい出会いがやってくるはずだ。

 

通学中にイケメンとぶつかったり、図書館で偶然手に取った本に挟まっていた手紙から見知らぬ相手との恋の文通が始まったり、よく行く喫茶店の端で仕事をしている男性から声をかけられたり、講義で顔見知り程度だったひとからの誘いがあったり

 

世界は偶然で溢れている。こんな出会いを求める乙女で世界は溢れている。私もそのひとり。ドラマのワンシーンを求めている。春になると特にそうだ。街全体だ浮かれている。

誰だって新しい出会いにワクワクする。それが春。

 

恋する乙女は無条件にかわいい。に、付け加えます。恋したい乙女もかわいい。